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詩歌に癒されて生きる

◆ 第4回 タブー 谷地快一

 人の身体の中に「死」の想念が住みつくのは何歳くらいからであろうか。
  小学校に入ったころのことである。いま一緒に遊んでいたはずのXがふうっと消えた。家の前の国道を走り抜ける車にはねられて死んだのだ。それ以後、「死」は彼の身体に住みついて離れない。どこかへ出掛けて、もう戻ってこないように思える時もあるが、それは身体の中でしばらく眠っているだけで、読書の最中や映画を見ている途中、あるいは喫茶店で雑談している合間などに、突如目覚めていたたまれない。そこで、やがて来る「死」を受け入れられるまで「生きる意味」を問いただすこと、それなくして人生を設計することは欺瞞であると考えるようになる。
  いきおい、文学書から宗教に関する読書へと比重が移る。神道にはつまるところ教義らしきものが見あたらず、やむなく外来宗教の中から歴史のある仏教書をあさった。そこでわかったことは、ブッダの目指した理想の境地が「涅槃」という絶対平穏な寂滅の世界ということ。その「涅槃」とは本能のもたらす心の迷いが消えた状態である。だが、それは「死」をもってしか達成できない「無」の世界であるという。「死」ぬことでもたらされる理想、これでは「生きる意味」を問うている者への回答になり得ないではないか。彼は大急ぎで文学書へと引き返した。雲雀やカナリアのような美声は持ち合わせていないが、詩歌を通して、眼前の現実に意味を見いだすよう懸命に生きた。
  詩を書く少年は孤独である。思想・信条の自由が保証されるというのは絵空事で、政治と宗教の話はタブーであるからだ。たとえば、ジョン・レノンの「イマジン」(山本安見訳)は自覚的な人生を説いて美しい。〈想像してごらん 天国なんてないんだと…〉〈その気になれば簡単なことさ〉〈僕らの足下に地獄はなく〉〈頭上にはただ空があるだけ〉〈すべての人々が今日のために生きていると…〉〈国境なんてないんだと…〉〈殺したり死んだりする理由もなく〉〈宗教さえもない〉〈所有するものなんか何もないと…〉〈欲張りや飢えの必要もなく〉〈すべての人々が世界を分かち合っていると…〉。だが、当時この詩は不浄つまり俗悪とされ、禁忌の対象とされた歴史を持つ。傷ましいかな、ジョンの死は政治と宗教という凶弾に倒れたように見えた。それはタブーが権力の維持装置として機能した瞬間ではなかったか。
  ひさしぶりに仏教書を読む機会を得た。それは『現代と仏教』(佼成出版社)で、手にした理由は本の帯に〈仏教は平和主義であるとか、仏教は生命を大事にするとか、口先だけのきれい事をやめようではないか〉(末木文美士「仏教に何が可能か」)とあり、戦争の要因としての宗教を正視する知性を感じとったからだ。〈経典に書いてあるからとか、宗祖がこういったから、ということは、もちろん宗派内の「公」として成り立つし、それは否定しない。しかし、それは宗派を離れたら何の説得力も持たないことを認識しなければならない。それでもどうしても自分が主張せずにはいられないこと、実践せずにはいられないこと――そこから出発する他ない〉(同)とは、学者の言葉というより、詩人の眼に近い。
  また本文には〈「説く仏教」は限界にぶち当たっている。それは現代の苦悩に届かない。私の苦悩という「個別」の苦悩に向かい合い、その「苦」の構造をあぶり出すことから、わたしは「かけがえのなさ」を回復してゆくのだとすれば、その「苦悩」との関係が分からない「正しい教え」をいくら聞かされても、まったく何の役にも立たないのである。それは「正しいが無意味」の世界だ〉(上田紀行「〈いのち〉の価値を保証する仏教」)ともある。タブーが、その渦中にある知性によって、破られる日が近いのであろうか。
(日販図書館サービス『ウィークリー出版情報』第26巻12号/2007.3.27より転載)





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