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詩歌に癒されて生きる

◆ 第1回 快楽主義者の誘惑 谷地快一

  挫折はなんどか味わったけれど、この国の教育制度から逸れることなく育ち、そのレールの先でどうにか社会人として暮らしている。なんどかあった挫折の哀しみは、グラスにワインを注ぐように、詩歌を読んでやり過ごした。禁欲に効き目のある詩はいくつもあったけれど、ひとつあげろと言われれば、石垣りんの「定年」(『石垣りん詩集』角川春樹事務所)であろうか。
ある日/会社がいった。/「あしたからこなくていいよ」/人間は黙っていた。/人間には人間のことばしかなかったから。/会社の耳には/会社のことばしか通じなかったから。/人間はつぶやいた。/「そんなこといって!/もう四十年も働いてきたんですよ」/人間の耳は会社のことばをよく聞き分けてきたから/会社が次にいうことばを知っていたから/「あきらめるしかないな」/人間はボソボソつぶやいた。/たしかに/はいった時から/相手は会社、だった。/人間なんていやしなかった。
  できれば、こんな定年はゴメン蒙りたいのである。人として生まれてきたからには、人間のことばを話し尽くして終わりたいのである。それができないのは、レールに乗り続けるための苦労がそこそこ必要だからである。レールから外れた暮らしが想像できないからである。想像を支えるだけの奔放さに欠けるからである。
  『詩本草』(岩波文庫)という奔放きわまりない漢詩集を読んだ。本草とは薬用の材の効能や産地を説く書物をいうから、書名は食べものをテーマとする詩文集と言ったところか。その素材は粥に始まり、茶・蕎麦・松蕈・笋(たけのこ)から渓鰮(あゆ)・鯛・鰹・鯖・鯉・鱸(すずき)・河豚(ふく)などの魚類に及び、蟹や鰒魚(あわび)、桃の実や桑の実など、全四十八章という豊かさである。むろん、食い道楽につきものの、酒にも言及するところも少なくないが、
飲は天地間の第一韻事(いんじ)にして、詩家欠く可からざる政(まつりごと)なり。吾が飲、器を尽くすこと能はず。花時、雪天、若(も)しくは山秀水麗の境に逢へば、乃ち一盃を把る。宴席殊(こと)に悪(にく)からず。但(た)だ彼の執盃持耳翁(しゆうはいじじおう)を怕るるのみ。
と、酒を無理強いする老人を意味する「執盃持耳翁」を恐れていることでわかるように、この詩人は酒宴の場は好きでも、酒はほとんど飲めなかったようだ。
  その詩人とは江戸時代の柏木如亭。一茶や良寛とほぼ同じ時代を生きた人である。江戸は神田に生まれて、少年時に父母と死別したために、代々続く幕府の小普請方(こぶしんかた)大工棟梁職の家業を継ぐかたわら、二十代から市河寛斎を盟主とする江湖詩社に属して清新な詩風を学び、吉原遊郭における遊興を素材にした詩文「吉原詞(よしはらし)」を残すほどに活躍したが、三十二歳で突如家督をゆずって、各地を遊歴して生涯を終えた。『詩本草』は、群馬・長野・新潟・東海道・三重・京都・大阪・岡山・香川などをめぐる美食と遊興の産物といえる。 江戸時代は漢詩が日本化してゆく時代で、当初は李白や杜甫を中心とする盛唐詩を尊重し、擬古的な格調を重んじたが、市河寛斎の江湖詩社では、空疎な模倣を排して作者の体験や心境に即した清新な世界の体現を追究した。如亭の破天荒はこの結社の代表的な例で、その奔放な文人の生涯が、江戸の旅と食の記録とともに伝わって、読む者を励ます。如亭の人生に敷かれたレールはなかったようだ。慰めによる癒やしもありがたいが、時代を超えた快楽主義者(エピキユリアン)の放埒と誘惑も悪くないではないか。
  ちなみに、本書には書き下しと語釈が備わって読みやすいが、魅力が漢詩という形式にあることも事実である。漢詩の世界はいつの時代もファンタジーへの入口であった。
(日販図書館サービス『ウィークリー出版情報』第25巻49号/2006.12.26より転載)




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